李氏による朝鮮王朝時代の歴史

韓流ドラマの歴史物にも良く登場する、李氏によって約500年ほど続いた朝鮮王朝時代。その歴史の間には何があって、どんな時代だったのか、解き明かしましょう。

朝鮮王朝の誕生

1392年に、李成佳が高麗の王になったことで始まりました。明から治める権利を認められ、実質的な朝鮮王となったのです。明以降も、中国との君臣関係(中国が宗主国)が続きました。都は、高麗時代の開京から、現在のソウルである漢陽(ハニャン)に移りました。

どんな王朝だった?どんな王がいたの?

儒学の中でも朱子学の教育が政策として熱心に行われ、本が刊行されたり、活版印刷も行われ、更にハングルも出来たのがこの王朝時代。文化も栄えました。最も偉大な王と言われた、4代・世宗の時が全盛期だと言われています。今の世にも派閥があるように、朝鮮王朝にも西人(ソイン)や南人(ナミン)等の派閥が存在し、19代・粛宗(スクチョン)の時代にその争いが激化しました。また、王の中には、クーデターにより、やめさせられてしまった王もいました。

10代・燕山君(ヨンサングン)と15代・光海君(クァンヘグン)です。位を下ろされてしまった場合は、他の王の様に“宗”や“祖”が付く尊号が与えられず、王子当時の名で後世まで呼ばれたのです。どちらも暴君だったという話ですが、光海君の場合は、現代では違った見方がされています。

3大徳妃・3大悪女

李氏朝鮮においては、徳妃と呼ばれる3人の王妃が存在しました。一人は、4代王・世宗(セジョン)の正室、昭憲(ソホン)王后。お穏やかな人柄で、曲がった所のない人でした。続いて19代王・粛宗の王妃である仁顕(イニョン)王后。側室・張氏に王妃の座を奪われるも、それに耐え、後に復帰します。最後は孝懿(ヒョイ)王后で、ドラマでも有名なイ・サンこと22代王、正祖(チョンジョ)の王妃です。知性に優れた人でした。

三大悪女というのは、燕山君という王の側室、張緑水(チャン・ノクス)という側室。妓生から側室になりました。王と共に連日宴会を催し、金を湯水の如く使ったと言います。そして、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)は11代・中宗の第3継妃である文定王后の弟の尹元衡(イン・ゲンコウ)の側室となり、策謀を巡らせたのです。王の代が変わり、文定王后の子が即位すると、実権を文定王后とともに握ったのです。

19代王・粛宗王の側室・張禧嬪(チャンヒビン・ヒビンは号名)。張氏は中間の身分から王の側室になり、前出の王妃を蹴落として王妃の座にまで上り詰めます。しかし、数々の悪行が明るみになり、毒薬による死刑になりました。

朝鮮王朝の衰退・最期

1904年の日露戦争の後に、日本は朝鮮(大韓帝国)を内政や財政共に自国の保護下に置きます。その権利を得るための責任者には伊藤博文が就いたのです。1906年に韓国島統監府が日本に置かれ、初代の統監には伊藤博文がなりました。しかし、併合に反対する者と推す者との議論は激しくなるものの、伊藤自身は反対していたのでした。1909年に、伊東博文が暗殺されます。

このことで、朝鮮人によって韓国(朝鮮)と日本を合併させようという要求が出されたのです。その翌年の1910年に、「韓国併合ニ関スル条約」は結ばれ、大韓帝国が日本の一部分となり、518年に上った朝鮮王朝は終わりを告げたのでした。