朝鮮王朝時代以前の歴史

李氏による、朝鮮王朝が隆盛を極める以前は、朝鮮半島はどの様な国があり、成り立っていたのでしょうか?私としても、とても興味のあるところです。今回は、そんな古時代の朝鮮半島の歴史について探っていきたいと思います。

三国時代以前

三国時代の前には、扶余、沃沮、伽耶、于山国、耽羅国といった小さな国や部族の国家がありました。三国時代にも営まれていた国もあります。

三国時代

朝鮮半島と満州(現・中国)にあった、高句麗、新羅、百済の三国による時代を三国時代と言います。一番国土が広かったのが高句麗で、その下に百済(朝鮮半島南西部)と新羅(朝鮮半島南東部)が並んでいました。日本の考え方だと、四世紀から七世紀頃だと言われています。のちの新羅である斯盧(サロ)が朝鮮半島の南東部で中国の当時の王朝である前漢から、治めることを認められたことから、この時代は始まっているのです。

高句麗は、鴨緑江(中国と朝鮮半島の国境にある)よりも上にあり、漢から独立したのは紀元前三七年(韓国の考え方で)でした。紀元前18年には、東明王(高句麗初代の王)の子である温祚(おんそ・百済初代の王)が、朝鮮半島の南西部に百済を建てたのです。現在の公州(もしくは清州)である熊津が都でしたが、その後に今の扶余に移りました。紀元後1世紀になると、伽耶が百済から独立しました。

高麗時代

高麗という国は、王建という太祖によって918年に建てられ、936年に朝鮮半島を一つにまとめ1392年まで456年続いた王朝の名です。元々、高句麗の後期で「高麗」という国号が正式に使われていたのです。都は開城(ケソン・現北朝鮮。開京とも)にありました。現在では工業団地で有名です。901年に、弓裔(クンイェ)という人物が後高句麗を建国しました。王建は、戦でも勝利し、臣下たちの信頼もある立派な人でした。

その王建を、弓裔は狙うのです。そんな弓裔を王建が斃し、王座に就きました。それが高麗の始まりなのです。その後は、892年に建国された後百済と高麗の戦いが平行線のまま続きます。新羅は高麗に従い、高麗に合併されました。政治的な動乱の中で後百済は衰えていき、936年に高麗によって攻め入られ、滅んだのです。こうして、高麗の朝鮮半島統一は成されたのです。

それから、1170年より100年間、武臣による政治が続き、「三別抄」という正規の軍隊が組織されました。13世紀には、モンゴルが何度も侵攻してきます。このことで、国内は荒れてしまい、江華に都を移しました。1259年にモンゴルに降参し、北部はモンゴルのものになってしまうのです。都はまた開京に戻され、武臣による政権はここで終焉を迎えました。そのことで、「三別抄」は解散の命が下りますが、それに反発しました。

そして、高麗は元(モンゴル)と君臣関係になったのでした。14世紀に入り、元は勢いが衰えていきました。紅巾の争いも起こり、紅巾の軍が開京(ケギョン・開城のこと)まで元軍に追われて逃げてきたこともあったのです。高麗31代王である恭愍王(コンミンワン)は元に反発する行動をしました。1350年頃からは倭寇の勢いが活発になり、高麗は苦悩します。1356年に、恭愍王は元と国交を断絶し、親元の者と親明の者との争いも起こりました。

倭寇などで武功のあった李成桂が頭角を現していて、反乱を起こしたのです。そして政権を意のままにし、1389年に恭譲王(コンヤンワン)が立てられるものの、親明派である臣下たちの後押しもあって、力を強くし、1392年に恭譲王を廃位させ、自ら王となり、朝鮮王朝を起こしたのでした。